マゴソ(26歳)は、エクルレニ市北東部のタウンシップ、デヴィトンの出身。エイズ・ホスピスに入院してきました。入院時の彼女の家族構成は、5歳の男の子と8歳の女の子の2人の子どもを抱えた母子家庭に、彼女の母親を加えた4人家族でした。
子どもは二人とも同じ父親との間に出生したとのマゴソの話ですが、父親は子どもを認知することもなく、私たちが彼女に出会ったときには音信不通の状態でした。彼がHIV陽性であるかどうかは不明。子どもの感染の有無も不明な状態でした。マゴソも自分の異性関係について語りたがりませんでした。
母子家庭はタウンシップでは当たり前の光景です。
また、母親の感染がわかっていても子どもの感染があやふやであるという事例も、いまだに非常に多く、特に彼女が感染したと予想される時期と子どもを出産した時期は、母子感染を防ぐネビラピン(ARVの一種)の妊婦への国による公費負担での提供が始まっていなかった時期と重なるため、母子感染の可能性は捨てきれません。地元のクリニックはマゴソへの対応をしただけの状態で、エイズ・ホスピスへ彼女を紹介しました。
家庭での経済基盤は子ども二人に対するチャイルド・グラントと、ホスピスに入院してから受けられるようになったディスアビリティ・グラントです。彼女の母親はまだ老齢年金を受給できる年齢にはいたっていませんでしたし、マゴソは就労していなかったので、ディスアビリティ・グラントを受給する以前の家庭の貧窮状態が、彼女の免疫低下を早めてしまったことが容易に想像されます。
どのように生活を成り立たせていたのか、彼女は「なんとか生きていた」と言うのみでした。
入院の段階で、CD4カウントは70以下の値を示しており、入院直後から多くの日々を臥床がちに過ごしていました。
ディスアビリティ・グラントは、家に残してきた家族の生活費にあてるために、彼女は小遣いゼロの入院生活を送っていました。でも、病院での3食は入院前に比べて格段に彼女の栄養状態を改善させました。
当初日常生活は半介助で、歩行器の利用と、車椅子と半々の生活。
様々な日和見感染にも苦しみ、一時は生命が危ぶまれてたものの、力強い生命力と精神力にて回復して、切望していた一時退院を果たしました。
タウンシップに戻ってからの彼女の生活する家は、雨漏りも激しい、粗悪なシャック(掘っ立て小屋)です。
近隣で調達できる食料は、主食のパップ(とうもろこしの粉)やパンと、キャベツ・ジャガイモ・トマト・玉ねぎ程度です。家には冷蔵庫はもちろんありません。
低栄養と劣悪な環境によって、早期に病状悪化することは目に見えていたため、退院直後から食糧の差し入れを持って定期訪問を行なっていきました。シャックの雨漏りの修繕も行いました。
また疾病管理や身体管理といった知識に欠落し、HIV/エイズにかかわるすべての話題を回避しがちであった彼女への生活指導も欠かせませんでした。地域にはホーム・ベイスド・ケア(訪問介護)や陽性者サポート・グループは存在しておらず、彼女の家への訪問可能なサービスは何もありませんでした。デヴィトンというタウンシップ内には、ホーム・ベイスド・ケアやサポート・グループは存在しているのですが、彼女の居住地区はデヴィトンのはずれにあったため、活動範囲外ということでした。
子どもたちの衣類や学用品は、年度替りに教会に集まった寄付から分けてもらい調達しました。学費に関しては、彼女の疾病の状態では免除になります。その手続きは地元のソーシャルワーカーがちゃんと行なってくれていました。
マゴソはその後6ヶ月の間、タウンシップでの生活を続けることができました。しかし、6ヵ月後に病状悪化し衰弱した状態となって、エイズ・ホスピスへ再入院となってしまいましいた。彼女は既に始まっていたARV治療のリストにのることができませんでした。
再入院後の彼女は、病院スタッフとのコミュニケーションも満足にとれないままに2週間ほどで亡くなりました。ギリギリまでマゴソは子どもたちと一緒に過ごしたのでした。
葬儀は教会からの寄付金でまかなわれました。そして遺された孤児たちはひきつづき、祖母がケアしていくことが話し合われました。
ところがこの段階で、これまで彼女一家を無視し続けてきた兄夫婦が登場します。そして、「自分たちが全ての手続きを踏むので心配しないように」と祖母を説得して、死亡証明を持ち去ってしまったのです。エイズ孤児を扶養していくものが受給する「養子手当」には、法的な手続きが必要になります。その際にはこの死亡証明が必要となるのです。
つまり、兄夫婦は養子手当を自分達が受給するための手続きを行い、実際の孤児のケアは拒否しよう、何も知らない祖母に押しつけよう、としていたのです。
このように孤児のケアを行なうことのない親族が養子手当を受給する例は多く生じています。
タウンシップで生活する人たちの多くは、社会資源の情報に非常に無知である場合が多く、情報へアクセスするためのノウハウを知らない人が、エイズ孤児を懸命に世話して、情報にアクセスした人が利益だけを得る、ということが少なくありません。
このような事例を防ぐために、現在は現実にエイズ孤児の扶養が申請された居住地と家族によって行なわれているかどうかの、訪問調査活動に行政も力を入れるようになっています。
マゴソの遺した子ども達の場合ですが、早期にこの不正に私たちが気づいたため、エイズ・ホスピスのソーシャルワーカーとも連携しながら、数回にわたって、兄夫婦との面談を行い、円満な形での祖母への権利の引渡しに納得してもらうことができました。
しかし、この交渉の期間、祖母は娘の死への悲嘆に加えて、家族の不実な行為を知ったことの動揺が激しく、孤児たちも不登校をきたしたり、いつもよりも外遊びで怪我をしたり、お腹をこわすなどのストレス反応が起きてしまいました。
タウンシップの近くの家庭に見守りを依頼したものの、十分なケアが受けられないことが確認されたため、養子手当の問題が解決するまで、遠縁の親族を頼り、プレトリアに滞在することになりました。
現在孤児たちは、元の母親と暮らしていた家へ戻り、祖母と3人で暮らしながら、定期的にプレトリアの親族宅に身を寄せて、リフレッシュを図るという生活を送っています。近隣に居住する医療従事者を見つけ、何か気になることがある場合には、行政やホスピスのソーシャルワーカーに連絡することを依頼し、祖母にもそのように伝えています。
エイズ孤児たちのHIV検査については、扶養義務者となった祖母がまだ同意せず、検査にはいたっておらず、今後も働きかけの継続が必要です。
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