もうすぐ30歳を迎えるタビセング(仮名)は、17歳のときに父親から性的虐待を受けるという体験をしました。
HIV感染を知ったのは2003年のことです。
ボーイフレンドとのセックスの経験もあったため、感染経路ははっきりとしません。
父親からの性的虐待を受けた直後、その事実を知った彼女の母親は、彼女を守るために父親の元から彼女を連れて逃げました。
母娘でたどり着いたのは、ジョハネスバーグに隣接するエクルレ市の東のはずれ、ムプマランガ州との境に近い、エトゥワトゥワというタウンシップでした。
エトゥワトゥワでの住まいは、トタンでできたシャック(掘っ立て小屋)。
エトゥワトゥワは、クリニックや小・中学校と雑貨屋以外は何もなく、行政機関へのアクセスも、隣接するタウンシップのデヴィトンへと出向かなければならない不便な場所。舗装された道路も少ない町です。
タビセングが感染をした知ったのは、2003年に消火器症状を患って、嘔吐と下痢が止まらなくなって病院へ駆けつけたときのことでした。
運ばれた公立の医療機関では、彼女がHIVウイルスに感染していることが判明したためか、たまたま質の悪いケアワーカーや看護師にあたったのかは不明ですが、彼女は一晩を、嘔吐物と下痢便にまみれて、シーツ交換も何もしてもらえないまま過ごしたそうです。
入院初夜の対応にショックを受けた彼女とお母さんは、在宅での療養を決意し、退院しました。それでもこれから何が起こるのか不安です。何もしないまま死んでしまうのはとても恐怖でした。
そこで地元のクリニックへ相談に行きます。
医者からはCD4カウントを含めた彼女の状態については、一切の説明を受けないまま、「ここへ行きなさい」とエイズ・ホスピスへの入院を命じられました。
エイズ・ホスピス「セントフランシス・ケアセンター」へ入院したときのタビセングは、そこがホスピスであることは知りませんでした。ただ、この病院であれば貧しくとも入院費はかからず、食事も食べられるとの説明を受けたそうです。
私が彼女と出会った際には、ホスピスでの生活が3ヶ月ほど過ぎていました。長期にわたる臥床生活と、おそらく感染による神経症状によって、下半身の機能が低下して歩行不可能な状態になっていました。
リハビリもないままに、足の関節も拘縮してしまい、床ずれもできてしまっていました。車椅子にも長時間座ることはできません。
それでも彼女は笑顔を失わず、キラキラと瞳を輝かせて日々を過ごしていました。
「初めて感染を知った医療機関での対応や、自分の過去の恐ろしい体験に比べて、このホスピスは素晴らしいわ。ただ、毎日友人が亡くなっていくことだけが悲しいの。」
そう彼女は話していました。
その後、ホスピス側への働きかけを行い、看護師とともに彼女のリハビリを少しずつスタートさせました。座位がある程度とれるようになった段階で、彼女がこれまで誰からも情報提供されていなかった、障害者への社会保障「ディスアビリティグラント」の申請に出向くことにしました。
移動が自由にできない彼女の代理で、申請手続きをしてしまうことも考えられましたが、自分にはサービスを受ける権利のあることをしっかりと理解し、主体的に動いて欲しいことを話し合ったところ、彼女は頑張って外出して申請することを選びました。
グラントの申請には5指の捺印が必要です。生活状況の聞き取り調査もあります。彼女の居住しているエトゥワトゥワ・クリニックのソーシャルワーカーのもとへ出向きましたが、当日は私たちが電話連絡しておいたワーカーが勤務しておらず、別の職員はいくら説明しても申請手続きを行なってくれませんでした。
エトゥワトゥワには、デヴィトンから週に1回、ソーシャル・グラントの申請受付を専門としているソーシャルワーカーが出張してきます。そのワーカーにクリニックのワーカー経由で申請書類が届くようにすることが私たちの望むことでしたが、察するに、その代行手続きを請け負うことが面倒で拒んだか、そういった知識すらないワーカーが当日勤務していたかどちらかでしょう。南アではよく起こる出来事です。
結局、タビセングのグラント申請は、私が別のHIV陽性者支援でお世話になった、全く違う地区のクリニックのソーシャルワーカーにやってもらうことになりました。もちろん彼女は、快諾しその後デヴィトンのワーカーとの連絡調整を図ってくれ、タビセングは無事にグラントがもらえることになりました。
その後、彼女のHIVエイズという病への理解が深まり、母親への介護指導が進んだ段階で、ホスピスからの彼女の退院が決まりました。
彼女は尿カテーテルを導入していたため、ホスピスの職員が車で送迎する形で息的にホスピスまで通院しながらの退院生活となりました。
彼女の住む地区には、ホーム・ベイスド・ケア(訪問介護)を実践している団体も、HIV陽性者のためのサポートグループも見つからなかったため、ニバルレキレのHIV陽性者の仲間が定期訪問することになりました。
彼女はそれまで、感染して死んでゆく友人としか出会っていなかったので、サポートグループで、生き生きと活動するHIV陽性者との出会いは大変新鮮だった、と教えてくれました。
その後彼女は、ホスピスで出会った白人ボランティアが費用負担を申し出てくれ、私立病院にリハビリ目的の入院を果たし、杖歩行が可能となりました。
そして居住地も、サポートグループが存在し、今では親しい友人となったその白人女性の訪問も受けやすい場所にあるタウンシップ、テンビサで、お母さんとの新しい生活をスタートさせました。
その後、セントフランシスケアセンターがUSAの支援によって、ARVクリにニックを開設し、彼女もARV治療へアクセスすることができました。地元テンビサの公立病院にも現在はHIV陽性者のための専門外来が開設されて、困ったときにはいつでも治療を受けにいくことが可能です。
もともと読書の大好きな彼女は、「いつか夢を見つけたら挫折した勉強を再会して、その夢を叶えたい」と話しています。
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