セチャバの初日は教会を借りてのスタートとなりました。
ボランティアの女性たちがサンドイッチの飲み物を用意して、子ども達にプレゼントと遊びを提供する。試行錯誤でのスタート日でしたが、多くの人が集まりました。
初日に集まった子どもたちは、全員コミュニティの誰かしらが把握していたエイズ孤児たちです。孤児を養育している家庭の、養育者のおばさんやおじいさん等も駆けつけてくれました。
私たちが何よりも大切にしていることは、ゼロからすべてを作ることです。
ニバルレキレが主導権を握ることなく、あくまで住民が話し合い、すべてを決めていきます。
リーダーシップをとれる人。
後ろから支援できる人。情報をたくさん持っている人。
その土地に住んでいる人が、誰よりもその土地に必要なことを知っています。
南アフリカの文化も大切にしています。
エイズ教育を行うときに、ときに伝統的な文化や習慣などが生んだ誤解のために問題解決が進まないことがあります。
私たちは 緊急性が高いケース以外は、その文化や習慣と、必要とされている知識とが一人一人の中で折り合いがつくまで、何年もつきあっていきます。
教会を会場にスタートしたセチャバの活動でしたが、すぐに小学校と連携しての活動への移行しました。
苦労の末、公立のテンベリシェ小学校の教頭先生が学校の生徒の4割近くがエイズ孤児だとのことで、協力を申し出てくれました。
給食と放課後のアクティビティ活動をしながら、学校の先生と一緒に各家庭状況を改めて確認し、全てのエイズ孤児を把握したうえで、まずは無償のボランティアにとって可能な活動日数だった、週2回を継続していきました。
そして、例えば登校拒否だったエイズ孤児が再び登校し始めたり、学校から感謝され、友好関係が深まる中で活動は週3回へ。
屋外だった活動も、学校内にある屋内の部屋を提供してもらえることになりました。
最終的にボランティア達自身の申し出で、活動は週5回へと増えていきました。
子ども達が何よりも楽しみにしているのは給食です。
1日の食事がこの給食だけという子どももいます。
一人一人の子どもがやってくると、日々の学校や引き取られた家庭での様子をきいていきます。
気がかりな子どもがいると、後日リーダーのソーシャルワーカーが家庭訪問や学校の先生との間で話し合いの機会を持つようにしていきます。
学校の先生に頼まれて補習を行う子どももいます。
登校拒否だったエイズ孤児たちが学校に登校してくるようになりました。
セチャバの子ども達は自分がエイズ孤児だということを、堂々と友達や近所の人に話せるようになっていきましいた。
笑顔がどんどん増えていきます。
2012年。
センターの長年の活動がエマプペニの行政に認められ、エマプペニの中に土地を提供してもらえることになりました。
事務所もキッチンもなかったセチャバセンターが、いよいよ本当にセンターを持つことになりました。
場所はエマプペニの中のスラムの入り口の広場の片隅に決定しました。
この場所だと、テンベリシェ小学校だけでなく、3か所の小学校のエイズ孤児がケアを受けに通ってこれるようになります。
センターは予算があったわけではありませんし、何よりもスラム住民のボランティアと一緒にどのように建てるかを決めました。
そして多くのスラムの住宅と同じく、シャック(掘立小屋)を、まずはキッチンを兼ねた小学生の子ども達が過ごす場所と、新たにエイズ幼児やHIV陽性者の親がいる子どものための保育園を建てることにしました。
スラム地域に土地のあるセンターには下水管は引かれていませんので、トイレを作るためには行政に許可を得る必要があります。
許可を得るために、これまで同様に安心して評価してもらえるような活動を続けていくことを皆で心に決めました。
これまでのボランティアは、給食づくり、そしてエイズ孤児にとって母親の代わりとして存在できるようタウンシップの女性たちが中心でした。
今回センターを建設するにあたっては、積極的にスラムの中に住む若者たちにボランティア参加を呼びかけていくことにしました
子ども達が、どのように自分が育っていったらいいか。
若者たちがその手本(ロールモデル)となれるように。
失業していたり、希望を失っている若者に積極的に声をかけていきました。
また引き続き、エイズ遺族やHIV陽性者にも声をかけていきました。
センターの建設場所は、エマプペニのタウンシップ地区が終わり、スラム地区は始まる境界線となる広場に面したところ。
より困難にある人たちの地域へ。
潜在しているSOSを拾っていく活動が必要とされます。
また様々な事情を抱えたスラム住民の理解を得ていく必要がありました。
まず最初にしたこと。
それはスラム全域を歩くことでした。
テンベリシェ小学校で活動していた頃にはスラムの住民皆にセチャバが周知されていたわけではありません。
またたとえシャック(掘立小屋)でも、スラムの入り口に新しく何かができれば住民は警戒します。
犯罪の標的にもなります。
なので丁寧にセンター設立について説明の訪問を続けました。
そしてケアの必要性のある家庭とどんどん出会ってもいったのです。
その中で、様々な形での協力者も探していきました。
活動に直接参加するだけがボランティアではありません。
例えば、ちょっとした寄付金。ちょっとした食材。
料理のための火を起こすための廃材。
水を運ぶためのバケツ。
シャックを建てるための大工。
いろいろな人と出会って協力を得ていきました。
私たちも多少値段が高くても、食材は大型スーパーではなくセンター周辺の小売りのお店で購入し、お互いの協力関係を作っていくことを心がけました。
教材もすべて手作りです。
最初にスラム全域、全世帯にセチャバセンターについて訪問し説明してまわった効果は絶大でした。
多くの人が、自分にできることを考えてくれ、また私たちも多くの人がそれぞれに力や提供できる何かを持っていることがわかりました。
誰がその通りのリーダーシップをとっているのか。どの家庭に孤児や遺族や、HIV陽性者や困難の下に暮らしている人がいるのか。日々情報が入ってきます。
そういったチャンスに、どんどん住民を活動に巻き込んでいきます。
誰もが何かができる存在。だからセチャバセンターはみんなで作る「共同体」という名前なのです。
たくさんの人が日々、ボランティアとして参加したいとセチャバを訪れてくれます。
下の写真はごく一部の方の紹介にすぎません。
「セチャバがめざすもの」もぜひお読みになってくださいね。
給食づくりのボランティアとして頼りになるアフリカンママ。
8年間、絶えず誰かが給食づくりに駆けつけてくれています。
シャック(掘立小屋)のセンターを立ててくれた人たち。
皆近くに住んでいます。
給食を調理する火を起こすための薪を集めてくれたスラムに住むお母さん。
スラム地区のためトイレ設備の作れなかったセチャバのために、家の裏庭のトイレを貸してくれているお母さん。
子どものために何かしたい。18歳のソーシャルワーカーをめざしているスラムの女の子。
セチャバのため食糧やお金の寄付をいつも届けてくれる雑貨屋の女性。
セチャバの保育園が大好きなエイズ孤児。
無口だけれど、いつも笑顔でいっぱいの女の子です。
セチャバに大縄跳びの縄が届いた日。
夢中になって、子どももスタッフも一緒になって遊びました。
お絵かきイベントをしながら、学校や家のこと、お友達のことなど、いろいろ近況を確認をしています。
これはテンベリシェ小学校のスペースを借りてのハンドペインティング遊び。