トンビの家には、幼いエイズ孤児が2人遺されました。
ザンジレの子どものブリジットと、トンビの子どものンポです。
この時、トンビ一家への支援者は、全員が友人と他のタウンシップのサポートグループの仲間としての立場で、行政やNPOといった機関は一切関与していない状態のままでした。
でも、支援の輪は広がっていたので、葬儀や孤児への生活費の緊急支援は取り急ぎ確保することができました。
そしてエマプペニの隣にあるスクウォッターキャンプのヴァセロナに住む、トンビのもう一人の妹のタンディ(内縁の夫と、3人の娘との5人世帯)が、トンビ宅に一時的に戻って孤児2人の世話をしていくことになりました。
まだ緊急事態のため、タンディの子どもたちも含めて、子ども達はヴァセロナとエマプペニを数日ごとに往復する生活です。
ヴァセロナで一緒にタンディ一家と一緒に住むことが提案されましたが、ンポとブリジットの2人、特に男の子であったンポは亡くなった母親とおばあちゃんの思いでのある地と、慣れた学校からの転向を拒否。
ンポは「男である自分がこれからはこの家を守っていくんだ」と、何度も主張しました。
この段階では、タンディの夫はヴァセロナでの生活を希望していました。
最終的に彼らがどこで暮らすかの決定は先送りするかたちで、まずは祖母が手続きの途中であった、ザンジレの孤児ブリジットの養子手当の手続きの扶養義務者変更の手続きと、トンビの孤児ンポの養子手当の手続き、孤児たちの学費免除の手続きなどを、タンディが行っていく過程を、ニバルレキレではサポートしていきました。
経済基盤ができるまでの食糧支援も適宜行いました。
中断されていた緊急時のフードパーセルも、齟齬のあった団体との和解の話し合いをして再開する交渉をタンディと一緒に行いました。
トンビたちの孤児をケアすることになったタンディ自身も、姉2人と母親を立て続けに失い、孤児2人までも抱えた遺族としての心理ケアが必要でした。
また遠からず、タンディたちにエイズ教育も行い、タンディの健康状態なども確認していく必要もありました。
タンディも私たちには体調不良を抱えているように見えました。
幸い、子ども達は仲良く過ごしていましたが、ブリジットがしばらく緘黙(言葉がでない・出さない状態)気味になったり、ンポの学業成績がどんどん悪くなり落第するところを、学校の校長先生との話し合いの場を持ち及第できるよう孤児のメンタル面への理解を求めるなど、孤児たちへの心理ケアも続けていきました。
ンポは何度も何度も、トンビのお墓へ行きたがりました。
孤児であるンポやブリジットと、タンディと、ニバルレキレでじっくりと話し合い、彼らの生活面での窮状や心理面がケアされるために、そしてトンビ達の遺した願いを叶えるために、コミュニティを変えていこう、そのためには彼らの暮らしを地域にオープンにしていこうという確認を行いました。
本来このような支援にかかわるべきなのは、ニバルレキレや私たちのネットワークである他のタウンシップのサポートグループのメンバーや友人といった、コミュニティの外で生活する者たちによる私的な人間関係よりも、コミュニティ内の行政やNPO、住民たちであることが望ましいのだと思います。
しかし実際には、なかなか彼らからの積極的なかかわりは受けられない状況が続きました。
しかし、サポートの過程を通じて何人もの地元の行政やクリニックのスタッフに出会い、トンビたちのような例がコミュニティにあふれていることを訴えていきました。
特にトンビの遺した家族は彼女の勇気を引き継ぎ、自分たちのことをオープンにしてくれました。
小山と一緒に、コミュニティの様々な人のところへ話をしにいってくれました。
それらの過程を通じて、行政やクリニックのスタッフと改めてゆっくりと話し合ったり、また近隣にはエイズ問題に関心のある人、子ども達のために何かしたいと思っている人、HIV陽性者であることを隠している人、エイズ孤児としてがんばって生きている子ども達にたくさん出会うことができました。
月日は経ち、2005年を迎えました。
ニバルレキレ代表の小山が、エマプペニのコミュニティを歩いている間に活動を手伝ってくれている友人が、
ソエトというタウンシップ郊外にあるスクウォッターキャンプ(スラム)、クリップタウンのエイズ孤児たちの「エルドラド・ドロップ・イン・センター」を訪問した際に仲良くなったソーシャルワーカーが、エマプペニの別のセクション(日本でいう、~丁目のような区画の違い) から通勤していることがわかりました。
私たちはお互いに非常に驚きと喜びの声をあげました。
何かがここから始まるかもしれない。
そんな予感を感じさせる、偶然であり必然の出会いでした。
案の定、ソーシャルワーカーである彼は地元のエマプペニでも、たくさんのネットワークを持っていました。
彼を通じて、私たちはさらにたくさんの地元に住みながら、郊外の医療機関やNPOで働くカウンセラーやソーシャルワーカー、看護師らと、次々と会う機会を実現させていきました。
また、これまで知らなかったエマプペニ内での小さなエイズや子どもにかかわる活動をしているNPOの存在を知り、訪問し、トンビ一家の事例を報告する機会も得ました。
その中で、コミュニティにある問題が、社会資源の情報を適切に得るためのスキルを学ぶ機会がないこと、エイズ孤児の具体的な生活困難に長期的にかかわる活動がないこと、遺族のメンタルケアをする社会資源がないこと、HIVの直接の当事者ではないもののエイズの影響を受けている人たちをケアする活動等はないことなど、エマプペニの実情もよりはっきりと見えてきました。
また、コミュニティ自体が貧困の中にあり、その中で多くの人の自尊感情を高めていくことで、コミュニティの結束力を高めることができるのではないか、という希望も見えてきました。
ニバルレキレが出会った「エルドラド・ドロップイン・センター」で働いていたソーシャルワーカーの名前は、ムズワキ・クマロ。
ドロップイン・センターとは、エイズ孤児たちが放課後に給食や様々な活動などのケアを受けるために立ち寄る施設です。
そこで働いていたムズワキは、彼自身も大変な貧困の中で育ち、自分でコツコツと長い時間をかけてソーシャルワーカーの資格をとった青年でした。
彼は 「近々自分の住むエマプペニに自力でエイズ孤児を中心としたコミュニティでエイズとともに生きるすべての人のためのNPOを作りたい」 という夢を抱いていることを教えてくれました。
そして、彼と出会った小山の友人は、その場でトンビ一家の話と彼女の遺したンポや他の家族を私たちがこれからもケアしていくこと、そしてトンビの遺志を継いでエマプペニに何かを生み出したいという願いを語ってくれました。
おそらく、わずかでも私たちが話し合うタイミングがずれていたら、何かは生まれなかったでしょう。
それくらい私たちの当時のお互いの気持ちの高まりと目的は一致していたと思いいます。
何かがスパークする瞬間のようなものをお互いに感じていました。
ムズワキがリーダーシップをとる形で、住民との話し合いを進めていくことがすぐに決まりました。
コミュニティに住む、主に医療福祉関係の専門職種につく住民やリーダー的な存在の住民と一緒に、トンビ一家かこれまでにエマプペニの不十分なサービスと社会資源の欠落、住民のネットワークの弱さの中で直面しなければならなかった困難な生活について、私たちは何度も話し合いをしました。
それらの有志による話し合いでは、彼ら自身もより良いコミュニティを強く望んでいることがよくわかりました。
そして、トンビ一家のような悲しみをコミュニティから減らすためには、自分たちでコミュニティを変えていかなければ、という意志も複数の人たちが口に出すようになっていきました。
具体的なネットワークづくりが始まりました。
専門職だけなく、地域に住むHIV陽性者当事者や「自分も子育てをしている。孤児のために何かをしたい」という主婦たちも集まり始めました。
トンビの遺した孤児であるンポの 「亡くなった家族のために、この家を自分が守りたい」 という勇気も彼らの間で語り継がれていきました。
様々な活動の案が出される中で住民に一致した想いは、「まずは一番の弱者であるエイズ孤児を守る活動をしたい」というものでした。
そして活動内容として
が、住民の間で決められました。
活動の名前は 「セチャバセンター」。
セチャバの意味は「共同体」。
センターといっても、事務所も活動場所もまだこれからです。
でもその名前には住民の願いがこもっていました。
ニバルレキレがこの話し合いの中で何をしたかというと、「静観」と「傾聴」です。
また、彼らには実際に活動を始めるための予算は全くなかったため、ニバルレキレが負担できる「予算の中でそれらの活動を実現するためのプランの修正」 です。
コミュニティに何が必要か。
また、何をしたいか。
それを決めるのはコミュニティの住民自身。
そうすることで自分たちの活動に責任が持て、また活動も、たとえ予算が少なくとも長期続けられると考えていたからです。
この期間に、ンポたちの生活も変化していきました。
まず、タンディはトンビの家、つまりタンディも育った家に移り住むことを決断。
内縁の夫はヴァセロナに住むことにこだわったため、夫婦としては別居生活となってしまいますが、タンディは孤児2人と自分の子どもも含めて5人の子どもを育てていくことを本格的に決心したのです。
手続きには非常に時間はかかったものの、養子手当も支給が決定されました。
一家の住んでいた掘立小屋は、雨漏りに加え、砂や風もどんどん入り込んでしまう粗末なものであったため、少しずつタンディの内縁の夫が、ンポと一緒に家の修繕を行い、家族全員で住みやすい環境を作る努力を始めました。
夫との関係をどう維持していくかには試行錯誤もありましたが、幸い行き来する距離が近いこともあり工夫をしながらの日々が続きました。
タンディや子ども達には、エイズ教育を続けていきました。
タンディはHIV検査を受けることを決意しましたが、検査の結果はHIV陽性と出てしまいました。
また、結核も陽性であることがわかりました。
この時期には、徐々に公立の医療機関でのARV治療を受けられる人も増えてきていましたが、タンディの順番はまだ来ない状況だったので、結核の治療をしながら、タンディの2人の姉が亡くなったエイズホスピス併設のクリニックで、ARV治療を受ける登録を行いました。
タンディは生計を維持するために、家政婦の仕事を週に何日かしており、体調が悪い日もありますが、セチャバセンターの活動に自分も参加していきたいと、笑顔で語りました。
またセンターができることで、亡くなった母親の遺志が実現することに、ンポも非常に喜びました。
ンポ以外の子ども達も、自分たちもセンターを利用できるし時には手伝えるとわかり、とても喜んでくれました。
トンビという女性。
そしてンポという 「亡くなった人の遺したものを守りたい」 という強い想い。
ンポが守りたかったのは、「家」ですが、それは小山にとっては 「トンビの願いを叶えることによって、ンポに母親の素晴らしさを伝え続けていくこと」でした。
そして、偶然とも必然ともいえる、ソーシャルワーカーのムズワキとの出会い。
2年という歳月をかけて、セチャバセンターという住民の夢が動き出しました。